大いなる帰還【豚山肥太】

豚山肥太の詩と小説を綴るページ

柔道場について

中学へ進む前は部活は柔道部に入ろうと決めていて、小学校の終わりから近くの町道場へも通い出した。道場には同じ地域にある全国屈指の大学柔道の先輩が教えに来てくれて、凄く恵まれた環境だった。

 

僕が中学へ進む少し前に、中学の柔道部は部員がいないことから、廃部になった事を聞いた。練習用の道場はとても大きくて、その道場をこれからどう使うかなんかが、中学の先生達の間では話し合われていた。

 

僕は自宅にある和室で、町道場にいかない日は、柔道着に着替えて、一人で投げ技のフォームを自宅にあるビデオカメラで撮影したりして、この先が不確かになった中学での柔道部生活への不安を紛らわせていた。

 

僕が今の家に引っ越して来たのは小学校二年生の時で、両親が長いローンを組んで建てた一戸建てだった。当時は、母方の祖母が和室を使っていたが、昨年に祖母は他界した。あまり、自分の記憶をたぐり寄せても、なぜだか祖母の記憶はあまりない。

 

一度、白玉だんごを作ってくれた事があって、家の中にお菓子屋さんが出来た様でそれがとても嬉しかったことくらいは覚えていた。実際には祖母はもっと白玉だんごを作っていて、それは祖父や神棚に供えられていたようだった。

 

ある日、いつもの様に、和室で練習しようとして、ふすまを開けようとしたが、立て付けが悪くなった様に開かない、それでも何とか開いて、僕はいつものように、練習を終えた。

 

次に練習しようと和室に入ろうとしたが、今度はもう、ふすまがたわんで、曲がっていて、不気味だった。強引にふすまを外して、和室に入ると、気のせいか、畳の面積が増えているように感じた。

 

あまり、事態をよく考えずに、その日も練習を終えて、ふすまは外したまま、和室の事は置いておいた。仕事から帰宅した母が、ふすまの事を注意してきたので僕は事情を説明した。母はそんなことないと、ふすまを取り付けようとしたが、上手くはいかなかった。そして、やはり畳の面積が大きくなっている気がした。

 

ある日学校から帰ると、和室からアップテンポの洋楽が流れるので、のぞいて見ると、去年の全日本選手権の覇者の常滑川選手が柔道着を着て、腕立て伏せをしていた。僕はどうしていいかわからなくなって、母にたずねようとしたが、母は全く僕の聞いた事には答えず、なぜだか母も柔道着を着て、台所で自分なりに精一杯トレーニングしていた。

 

父が帰宅するのを待って、帰宅した所を出迎えに行くと、男女各階級の全日本の強化選手が父とともに帰宅した。父も仕事の時は、いつもスーツなのに、今日は柔道着で、そこに不似合いなネクタイをしていた。その晩は、常滑川選手を中心に、全日本の強化選手達と、父と母、そして、僕の兄と僕ら一家とで、ワイワイ、食事をして盛り上がった。僕は皆さんにサインをもらったりして、その日はそれで終わった。

 

翌日は早朝から、朝練が始まって、僕も参加したりもした。和室は遙かに大きくなっており、大学が持っている柔道場くらいの大きさになっていた。いつのまにか、最新のスポーツに関する理論で作られたトレーニングルームも出来上がっていた。

 

僕は売店で、各選手のサイン入りブロマイドを購入したり、出稽古にやってきたフランスの選手団と記念撮影をしたりしていた。学校に行こうと家を出て振り返ると、そこには、日本武道館がたっていた。

 

僕はとにかくうれしくなって、小学校へ行くと、先生から引っ越しに関する話を切り出された。遠回しに先生は、日本武道館になった我が家に僕の住むスペースが無いことを察せとばかりに引っ越しを勧めてくる。先生はずばり、中学の柔道部の部室が空いているからどうだと言ってきた。僕が断ろうとすると、めちゃめちゃこちょばして来たので、僕は観念して、中学に進学するとともに、中学の柔道部の部室に僕だけ引っ越した。

 

もちろん、中学校の中にある柔道部であったが、何か嫌がらせに合うという事はなく、僕は、50歳を目前にして、今もその部室に住んでいる。